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2018.10.09

【ACTION】リレー小説
『夏の白昼夢』#5


挿絵:Takuro Enomoto

若い頃から海が嫌いなのは知っていた。どうして若者は夏になると海に行きたがるのだろうか。近くの席の男女の会話が否応なく耳に入る。人は自分の聞きたい音だけを拾っているというが、本当にそうなのだろうか? 聞きたくもないのに、耳の奥まで彼らの声が響いてくる。意識の底では、聞きたいと思っている?

アイスコーヒーが置かれたテーブルに男はひっそりと座っていた。

いつだってそうだ。私の中にはいくつもの「私」が存在している。先ほどだって、複数の「私」が葛藤した。薬を飲みたくないが、飲まないと体調が悪くなるのはわかっている。でも、飲みたくはない。もう充分生きたのだから、死んだって構わない。しかし、体調が悪くなるのも耐え難い。だから、薬を飲もうとした。そうしたら、案の定だ。薬のシートを落としてしまった。薬を飲みたくない「私」の暴走。

自分のことは自分が一番よくわかっているというのは嘘でもあり、本当なのだろう。年をとって、ようやくそのことがわかる。やりたいことであっても、やりたくないと少しでも思えばブレーキがかかり、そうして悩みが始まっていく。そこに他人が入り込めば、さらに複雑化していくというものだ。

車の音が聞こえてくる。

ようやく男の意識が若者から束の間解放されたようだった。

ここに座ってから、それなりの時間が経ったせいかアイスコーヒーの氷が半分くらい溶けている。コップの周りは水滴だらけで触りたくもない。気だるい暑さが体にまとわりついてくる。

あの若者たちに、悩みなどあるのだろうか。きっと彼らは、いくつもあると言うのだろう。将来の不安、自分に対するコンプレックスの数々。挙げればキリがないのかもしれない。

あの子は、何やらパソコンで作業をしているようだった。テーブルいっぱいに資料を広げて……。元気でいることは間違いない。

そう両親に報告をしよう。あの子のことを心配する両親へ。都会で暮らすことを想像するしかない両親の心配は、きっと言葉でなんか表現できるものではないだろう。言葉など所詮、道具にすぎないのだから。その言葉を使ってする想像なんて、もちろん現実とかけ離れている。

水滴だらけのコップをあえて摑んで、男はコーヒーを流し込む。現実とは生々しいほど気持ち悪く、苦さを伴うものだと思いながら。

あの子もそろそろ誰かと付き合うのだろう。両親の心配はどう解消するべきか。考えてみるが名案など浮かばない。相手の男が結婚相手として申し分ないとでも、言っておけばそれで安心するのかもしれない。しかし、両親が安心してしまえば、私の収入はなくなってしまう……。

グオン、そこで男は急に咳き込んでしまう。
まただ。相反する思いがいつだって私を苦しめている。

気がつくと、あの子がそそくさと荷物を片付けはじめていた。今からどこに行くのだろうか。
男はハンカチで口を拭う。向こう側には何も映らない、コーヒーの先を見つめながら。

別に跡は追わなくていい。あの子の人生はあの子のものなのだから。突然、プツッと糸が切れたように、緊張感がなくなっていく。
男はゆっくりと息を吐く。

ふと、いつから自分はコーヒーが飲めるようになったのか気になっていた。

確か、二十代になってからだったような気がする。現実逃避するようにして、男は、頭の中を隅々まで巡らせる。思い出すのは、消えてしまったあの人、あの人の泣き顔、くぐもった声。

思い出などしょうもない。どうして人は恋愛感情を伴ったことばかりを、思い出すのだろう。そこまで生殖したいのだろうか。自分の中にひっかかる異性はきっと優秀な遺伝子のはず。そんな彼女と、老いぼれてもなお子孫を残したいと、遺伝子レベルで未練がましく体が訴えかけているのだとしたら、溜息しか出ない。

男は溜息を吐きながら、風を感じる。顔いっぱいに当たる風は、生暖かく、気持ちのよいものではなかった。まるで体に絡みついて仕方がない。そろそろ陽が落ちる頃だろうか。ぐつぐつと煮えたぎるような太陽が雲の隙間から見える。

男には太陽を見ると決まって思い出すことがあった。あの人と潜った海の中でみた光を。嫌いだと言ったのに、単純に「綺麗だから、一緒にきて」と言われて行ったあの日。「私」は海に行きたかったのかもしれない。

海の中から太陽を見上げると、光の帯がまるで梯子のように空に向かって伸びていた。あの時、これを登ればどこに行けるのかはなんとなくわかった。誰に言われなくてもわかる、そういうことが男にはいくつもあった。

そんなとき、複数いるはずの「私」がなぜかぴたっと重なっていた。

頭も心も限りなくクリアになって、自分は空気のようだった。地球の鼓動と重なる心地よさが胸いっぱいに広がっていた。

まるで夢の中のようだ。夢の中で私は迷ったり悩んだりしたことはない。ひとつの「私」が頭の中にある出来事を必死に生きている。しかし、それはとてもあっけなく終わってしまう。あるいは自分の意思で終わらせることができた。

そして目覚めると、必ず気持ち悪さを感じていた。現実に引き戻されるとなぜか「私」は分裂するのだ。その反動だろうか、目覚めの悪さは誰よりも自慢できる。

あの日、どうして海の中で「私」はひとつになれたのだろうか。もしかして夢だったのだろうか。

太陽がさっきよりも低くなっていく。

男は水滴のついたコップを摑んでみる。相変わらず濡れていて気持ちが悪い。気持ちが悪いのだから、コーヒーを飲むのはもうやめにしよう。素直にそう思う。氷は溶けて、薄まった不自然な苦さがあるだけなのだから。

今日はコーヒーを飲んだから、もしかしたら寝つきが悪いかもしれない。今日の私はどんな夢を見るだろうか。それだけは私にもわからない。自分のことは自分が一番よくわかっている。それは嘘であって、本当だ。

まだ夜までには時間がある。
闇に包まれる前に早くここから立ち去ったほうがいいと、男の中の「私」が言った。


すずきえりか:
TENANT 401号室メンバー。具現家。抽象的なイメージや思考を物として具現化させることを得意とし、多分野のグッズ製作等に携わる。深い人間観察を経てゆっくりとボートで漕ぎ出すような文章はまるで日の出前の雄大な河口のよう。