• HOME >
  • FEATURE >
  • 【ACTION】リレー小説『夏の白昼夢』#1
2018.04.17

【ACTION】リレー小説
『夏の白昼夢』#1


挿絵:Takuro Enomoto

向かいのデパートの地下駐車場から出て来た軽自動車のフロント・グラスに、空が映っている。

軽自動車は公道に出ようとウィンカーを点灯させ、前輪を少しだけ曲げている。

視界の中で静止しているのは軽自動車だけだ。道路を横切る他の自動車や、歩道を歩く人々。レストランのくすんだ赤い日除けさえも、頭の上で風に靡いている。映り込んだ空は鮮明な青色をしているが、フロント・グラスという限られた空間の中、雲が空をつくっているように思える。

軽自動車がタイミングを見計らって公道へ出た。フロント・グラスにクリーム色のビルが映り込み、一息にゆがむ。青空は一瞬でガラスの端に消えていってしまった。

今年も海に行こうよ。女が少し鼻にかかったような高い声で言う。女は隣のテーブルに座っている。しっかりと糊付けされたスキッパー・カラーのブラウスに身を包み、同輩程の男二人と笑い合っている。

海かあ、いいね。シューカツもそろそろ終わるし、サークルの皆を誘って、行こうか。男の一人が口元に運んだ琺瑯のカップに女の笑顔が隠れる。カップがテーブルに戻されると、女は公道を走る車を目で追っていた。

ああいう車、乗ってみたいな。

男二人が振り向き、女が指差した車を見る。ミニクーパーか、高えよ、あれは。後ろの席で老人が咳き込む。紙袋から薬を取り出す音がする。束の間。薬のシートを落とす音。透明なカプセルの中で、衝撃に揺れる小さな白い粒。BB弾に似た砂糖菓子が入った小さなプラスチック容器を、軽く揺すったような音。遠い昔の、小さな記憶。

女の甲高い声が頭に響く。車のマフラーが放つ低音。薬の入っていた紙袋を丸める音。男たちの酷く主張的な太い声。錠剤がアルミニウムの薄い壁を突き破る音。人々の足音。女の撫でるような甘い声。

全てがくぐもって聞こえる。まるで低音域の波を針で突いて押し上げたように。鼓膜や脳の音を感じ取る部分にフィルターをかけられたように。

落ち着こうと目を瞑る。オレンジ色の砂漠が見える。盲人が見ているという、終わらない砂漠。先を見渡すと、ぼんやりと白い景色が見え始める。砂浜だ。砂漠は、白い砂浜へと繋がっている。一面に白い、駆け出したくなるような砂浜。波の音がざわめく。うねる海水に潮の礫が降り注いでいるのが分かる。だんだんと強くなる、磯の臭い。

黄色い声が聞こえる。悲鳴にも近い。ちょうど十代の後半に聞いたような、時間の速さに悩むことのない、青々とした肉声。小麦色の肌の上で、水滴が綺麗な稜線を描く。

空は随分と晴れていて、海はどこまでも続いている。恐ろしい程に鮮明な青色は、街で売られている幾つかの絵の具を嘲笑っているようだ。真上に腰を据える太陽が、日陰から出で来る人々を今か今かと待ち構えている。

鋭く落ちる、銀白色の光。

灼けた砂浜はその一粒一粒が小さな針のようになって脆弱な肌を襲う。履物がなければ海岸まで歩けない。徐に掴んだ砂に、子どもの頃に悪戯した粉砂糖を思う。熱さに怯み力を緩めると、風に靡いて指の隙間から飛び立つ。

砂の行方を目で追うと、大きく弧を描く海岸線に沿って、二つの大きな岩場。その向こうに、小高い山が見える。麓には幾つかの古い民家が立ち並んでいて、そこから海に向かって桟橋が渡っている。

ちらほらと人影は見えるが、景観を邪魔する程の人数ではない。

彼女の小麦色の肌に付いている水滴が、流れるのをやめた。汗かもしれない。彼女が海に入ったところを見ていない。

こんなに暑いのに、よく眠れるね。

清涼飲料水のペットボトルを片手に僕に話しかける彼女。逆光で表情は分からないが、声色で機嫌が悪いことは分かった。清涼飲料水は無機的な緑色をしていて、学生のころ理科の実験で使ったような薬品を思う。液体の中で光が乱反射する。

枕が硬くてね、昨日は寝付けなかった。起き上がって、背中に張り付いたトリコロール柄のレジャーシートを剥がす。乾いた砂の落ちる音。

彼女からの返事はない。代わりに遠くで、ウミネコが鳴いた。餌を貰おうとしているのか、或いは繁殖期で雄を求めて鳴いているのだろうか。ウミネコは雌が雄へ求愛すると聞く。

これから長く一緒にいるのは、難しいよ。彼女がペットボトルのキャップを閉める。乾いたプラスチックの音と彼女の言葉が入り混じる。

汗が頬を伝う。少しの悪寒がして、自分の身体が暑がっているのか寒がっているのか分からなくなる。

今すぐに冷えた氷水を飲みたいと思う。思い浮かべるだけでも良い。想像だ。僕は目を瞑る。ぎっしりと氷の詰まった透明なグラスに、静かに満ちている水。波のうねりとは対照的に、水面は微動だにしない。グラスの表面には、不規則に並べられた大小の水滴。水の静けさに倣うように、夏の情景は閑散としていく。ひっそりと佇む水面の奥底に、オレンジ色の砂漠を見た。

気がつくと辺りは薄暗くなっていた。周りに人は見当たらない。水の入ったグラスは、氷が溶けてしまっている。

鮮明な青色をした空は、どこか端の方へ消えて行ってしまった。

また眠ってしまっていた。酷く身体が疲れていて、額に幾つかの汗が滲んでいる気がする。夜は静寂を連れてきて、静寂は街を包み込む。買ったばかりの枕が硬くて昨日は寝付けなかったのだ。向かいのデパートの地下駐車場からライトを点けた車が上がって来る。

フロント・グラスに、空は映らなくなっていた。


イハラカンタロウ:
SALON TENANT 306の住人。音楽家。弾き語りと、バンドメンバーを率いる楽団演奏で活動。新作音源「CORAL」を5/12(土)にリリース予定。役者としても活動しており、4/27(金)〜4/30(月祝)新宿シアターブラッツにて猫の手シアター公演「二律背反」に出演する。